旅(人生)は恥の掻き捨て

人生なんて所詮一瞬の旅。どれだけ恥を掻こうが足るに足らないものだ。

後悔以外なにもない、無価値なこの人生

思えば、生まれてこの方、なにかを本当に心からしたいと思えることなどなにもなかった。

私は母のお腹の中にいるとき、ほとんど動かなくてわざわざ医者に相談したほどだという。生まれた後も、幼児の時には寝返りを全くしなかったらしい。加えてハイハイという過程を経ず、しばらくしたら自ら立ったらしい。

よく考えれば、お腹の中の居心地があまりにもよくて、そこに満足していたのかもしれない。よく考えれば、寝返りを自主的にするほど、私の本能は生きることに真剣ではなかったのかもしれない。よく考えれば、まだ自分に備わった二本の脚を十分に使えないにも関わらず、周りの世界を探検するほど興味がわかなかったのかもしれない。

母親の無償の愛が、そんな私でも小学生に達した理由ではないかと思う。おそらく、私が最も純粋な形で、生に疑問を抱かなかったのは保育園までだ。ただ、母の庇護下にいられるのにも限界はある。私は小学生の、おそらく高学年になったくらいから、周りの者が徹底的にバカに見え始めた。学力という点では事実その通りだったのが、その認識を裏付ける根拠になった。しかしそれは、劣等感の裏側ではないかと、今では思う。友達と仲よく遊ぶ、ということを誰にいわれることもなく自然にできている周りの子達がただ羨ましかったのである。学校では基本的に一人の時間が多かった。そして私は基本的に家でもだらだら過ごしていた。本を読んだりゲームをしたり、なんとなく日々が流れていくのを、暇つぶしのような感覚で眺めていた。誘ってくれる友達がいなければ、外に出ることもなかった。それは今でも変わらない。本当に幸福な人生である。そういう人のいい奴がいつも、少なくとも皆無ではなかったことに私は、心から感謝している。

とまあ、恵まれた学校生活なのではないかと思う。そんな環境にいながら、私がなにかを自主的にしたことがあるだろうか。小学五年生のとき、統計グラフコンクールというのがあり、それで賞をとった。これは、少なくとも私が自主性をもって企画し、そして真剣に取り組んだ最初で最後のものかもしれない。

それ以外のことは、まあ流れにのってやったまでのことだ。そろばんには3年くらい通ったと思う。そろばん教室は非常に自由な空間で、基本的には各自野放しだった。教室のおばあさんは本当にいい人で、さすがに遊びすぎると少し怒られたが、私たちはみんな彼女のことが大好きであった。そんなおばあさんが、この前実家に帰った時に亡くなったと、人づてに聞いた。諸行無常である。

テニス教室には、姉についていく形で5年くらい通ったが、最後までいやでいやで仕方なかった。教室の曜日はかならずお腹が痛くなったものだ。運動不足を親に心配されて、陸上教室にも2年くらい行っていた。案の定嫌だったが、衣食住を依存している親に大きな顔をできない罪悪感は、小学生でも意外と持ち合わせているものだ。

そんな私は、中学受験をした。目指すのは、3年前に県立の高校を母体に新たに開設された、公立の中高一貫校であった。私は特に行きたい理由もなかったが、勉強ができる、ということが自分の存在意義だとすでに思い始めていた私は、親に薦められるがまま、一年前から塾に通うようになった。結果無事合格した。正直、受かるとは思っていなかった。その学校はとても人気で倍率は10倍程度はあったと思う。しかしなぜか受かったのだ。特に自分で主体性をもって取り組んだことではなかったものの、この成果はなにか偉大なもののように思われた。

中学に入った。厳密には中高一貫である。そこで、世界が広いことを知った。最も衝撃で、かつ嬉しかったのは、周りの子たちと話のレベルが合うことであった。それまでは、言葉の省略や論理の飛躍を避けて話していたが、中学で出会ったクラスメイトは当たり前にそれができた。会話がストレスなくできるのは、非常に気持ちのいいものだと思った。当時の私は、まだ自分に対して、期待していた部分があり、部活は直感的に吹奏楽部に決めた。この選択は、英断だったのか、おおきな間違いだったのか、今でもよく考える。しかし、楽譜も読めないくせにそんなところに飛び込むチャレンジ精神は、今の私がときおり採用するヤケクソではなく、純粋な気持ちだったのだろうとおもう。しかしその時から私は、真剣さ、努力、といったものに対する厭わしさにとらわれ始めていた。確かに、入部の動機は極めて清純なものだった。しかし、その取り組みはどうだったか。誠実とは言えなかっただろう。それでも3年いたのだが、結果的に中学4年(高校一年相当)の初めに「めんどうくさい」という理由だけで、定期演奏会前という最悪のタイミングで退部した。その時に、もめにもめたのは言うまでもないが、私はもはや、「めんどうくさい」から解放されるのであれば他人などどうでもよい心情になっていたのである。

この「主体性の欠如」「不真面目」「不誠実さ」というものは、もはや私の特徴というより、私自身である。私の人生に一つの一貫したものがあるとすれば、これだけだ。私は普通にまじめな優等生だったし、進学校の中でも学力は平均よりはあるほうであった。でも、そのような表面的な要素が、一体全体なんの足しになるのであろうか?

私は人間関係を厭うようになった。それでも、はたからみて一匹狼のようなスタンスをとっていたのではない。普通に友達もいて、それなりにやっているようには”見えていた”はずである。しかし、本当の意味で「友達」と呼べるものを作ろうとしなかった。チャンスはいくらでもあったのだ。しかし私はいつも真剣に向き合うことをしなかった。その努力を怠った。誰の人生にも関わらないことが、その人たちのためになるのだ、という悲しいルサンチマン的な思想を抱いたほどだ。経験的にそうなったのか、はたまた因果の結果なのかわからないが、私は常に「一人」であった。6年間の学校生活は惜しいものだったが、卒業式の後は、誰とも別れを惜しむようなこともなく、ひとりですぐ家に帰った。

中高一貫生活の中で、私にとって重要なイベントは上記の「部活」「友人関係」に関するアレコレ、あとはいかにも思春期らしい「失恋」と一年間の「海外留学」である。

失恋に関してはもしかしたら私の人生を決定づけた一つの分岐点だったのかもしれない。しかし、流れとしては部活と全く一緒だった。その始まりは、主体性にあふれた、純なものであったことに間違いはない。しかし、それに伴う必然的な努力をしなかった。完全な黒歴史であり、思い出したくもないが、私はとにかく痛い目を見たのである。私の思考にはそのころから、「主体性を持ってやったことほど、めんどくさいことはない」という強迫観念にも近い考えが生まれてきた。ただこれを自覚するのは大分後になってからである。

もう一つ外せないことは一年間、北欧のある国に留学していたことである。これについても、例にもれず私の意志というよりは、親の願いであった。現地についた瞬間、後悔した。言葉の壁というものを痛烈に感じたのである。もちろん、努力が嫌いな私は、天性の才能「なんとなくやる」を発揮し、なあなあの一年間を送った。みんないい人たちであった。そして、だんだんと気づいたことであるが、「留学生」という身分は私にとって最高の免罪符だったのである。なんとなく生きているだけで、立派に留学していることになるのだ。少なくとも、そう”見えた”らしいことは確かである。私は、最高にすべてから解放され、最高に自由な生活を謳歌できた。すべてのしがらみから解き放たれた私は、最高の気分であった。私にはそれだけで十分であった。それ以上に、自由だからといってしたいことも、やりたいこともなかった。学校が終わると帰り道でおやつを買って河辺で一人で食べた。休日はホストファミリーの犬の散歩に何時間もかけたり、自転車で河辺の誰もいないところに行った。自然をただ見て過ごしていた。それだけで私は満ち足りた、それだけで十分だった。留学をして分かったことは、私は「なにもしなくていい」ということ自体が、とにかく素晴らしいと思う人間なのだということである。これまでの経験からも明らかであるが、なにもしない、なにもしなくていい、ということが、私の価値世界において、至上の位を与えられているのだ。では、そんな綿費が生きている意味はあるのだろうか。最高に「なにもしない」、いや「なにもしたくない」のであれば、その最も手っ取り早い手段はいつも私のそばにある。私はいつでもその最高の世界に行くことができる。ちょっとの勇気さえあれば。

そんなこんなで、私は自分でなにをすることもなく、ただ流されて中学高校の生活を送った。留学から帰った私を待っていたのは、大学受験である。ああ、なんという甘美な響きなのであろう。大学受験は私の人生に今でも燦然と輝いている。それは、試験で点数を取るというゲームに私が異常に強かったからであり、その私が有利なゲームに、全国の受験生が血道をあげて参加していたからである。ただこれにはからくりがあった。私はまた「不真面目」であった。最初目標にしていた国立が、何教科も必要であるということがめんどくさかったし、「数学」というものが非常に問題を解くのに「努力」がいることに嫌気がさしたので、私は私立でも偏差値が高ければいいのではないかと考えるようになった。もちろん文系であるが、当時はまだ文系三教科が通用する時代だった。つまり、簡単な方に逃げてしまったのである。文系の科目は、私にとっては解くのに「努力」はいらなかった。もちろん、とんでもない量の暗記はした。したが、それさえあれば、試験問題などはただの作業だ。覚えていなければそれまで、覚えていれば解ける。歴史だけじゃない、国語だって英語だってそうだ。小手先の技術と暗記でどうとでもなった。

結果として、私立文系では最も偏差値の高い学部に入学することになったが「偏差値」が何も意味していないことに、まだ私は気づいていなかった。まだ私は、自分の惨めさを、「高学歴」という仮面を祭り上げることで覆い隠すことができた。しかし、自分でレベルを下げ、そこを通過するためだけになされたような努力など、なにもしていないに等しいのではないだろうか。努力とは、できないことをできるようになるためにするものであって、間に合わせの結果を手にするためのものは、努力とは私は認められない。

大学でも、なにもしなかった。サークルに入るという気力がわかず、大学寮でだらだら過ごすか、バイトをすることがほとんどであった。大学寮でのルームメイトはじめ、関係のあった人間は、あまりにも完璧な奴らであった。本当にいい人ばかりだった。しかし私はそこでもやはり、自分からどうしようとか、そういう行動を起こさなかった。常に受動的で、主体性などかけらもなかった。そんな私を、なぜか好きになってくれた人がいた。おなじアルバイト先の先輩で、年は二つ上だった。

今でも思う。私なんかのなにがよかったのだろう。顔や、学歴だ、と言ってくれたほうが、自惚れであったとしてもまだ納得がいった。しかし、彼女にとって好きは好きであり、ただそれだけだ、という風であった。私にとっては、まさに幸運以外の何物でもなかった。主体性などない私が、自分から出会いを求めるはずもなく、ただ生きていたら、彼女が突然私の人生に現れたようなものだからだ。いうなれば、買ってもいない宝くじが、勝手にやってきて、しかもそれがなんと一等賞、くらいの衝撃的な出来事であった。彼女との関係性の中で、私はなにかしたのだろうか。なにもしないではなかったのだろうか。与えられてばかりで、なにをしてあげられたのだろう。彼女が行きたいというところに行き、彼女が食べたいものを食べた。幸せそうな彼女を見るのが好きだった。でもその思いに果たして当時の私が気づいていたであろうか。私は、自分の存在を彼女に及ぼそうとは思えなかった。求められるものは差し出した。しかし私はなにも求めなかった。彼女は時折他の男に会ったり、肌を重ねたりしていた。そしてそれをなぜか毎回懺悔するかのように、私に告白するのであった。私は最初は動揺したものの、次第にその動揺に不思議さを抱くようになった。私はそれに動揺するほど、彼女を真剣に思っているのだろうか?そんなことを隠せず言ってしまう彼女は、そんなことをしていてもなお私のことが好きなようなのであった。だから何度そんなことがあっても私たちは付き合っていたし、問題はなかった。まるで都合のいい奴として使われているみたいに映るだろうが、そういった感情のもとに付き合っているようには思えなかった。仮にそうだったとしても、なお私に与えられたものは、どんなことを勘定に入れてもお釣りがくるほど大きなものだった。

彼女との関係は、一般的には「愛が重い」と呼ばれるようなものであった。私と彼女の共通のアルバイト先の先輩で、特に彼女の方と非常に仲の良かった人は、会うたびに私たちの関係が「異常」だと言っていた。確かに、彼女の依存度は日に日に増していく感はあった。別の男と関係を持つことはよくあったが、それと同時進行で一緒にいる時間が多くなっていった。あげく、彼女は私に同棲を迫るようになり、さすがにそれはやりすぎだと思って一晩喧嘩した結果、私は半分ヤケクソで、了承した。

後から振り返って思うのは、やはり私はなにもしていなかった、ということである。一夫一妻制がただの文明的な概念でしかない以上、ほかの男と会おうと何をしようと、それがただちに「浮気」とは呼べないし、人間の思いというのは、そんな社会通念以上に、価値のあるものだ、ということに関してずっと私は考えていた。そのたびに、彼女の懺悔をいつも「許して」いた。寛大なふりをしていて、結局弱いだけなのだ。それが間違っていたか、どうかは今でもわからない。しかし、「許さない」という選択肢も確かにあったのだ。その選択をしないために、周りくどい自己正当化をしていただけなのではなかったのか?私はまたなにもしなかったのだ。不誠実なのはどちらだ?不真面目なのはどちらだ?客観的に見れば、彼女のために寮生活を捨て同棲して全生活を捧げた「私」と、いろんな男と関係を持つ「彼女」、どちらが誠実かは答えが出ているようなものだ。社会的な通念であれば、それは明白なのだ。しかし実態として、これは全く正反対の事象を表している。決定することから逃げ、すべてを受動的にただ生きて、与えられるだけのもので成り立つ「私」と、何事にも真剣で、好きなものを好きと言えて、それに全力に取り組む「彼女」と。果たして、どちらが「誠実」か。

私は空っぽであった。空虚であった。何物でもなかった。「私」などはただの入れ物に過ぎなかった。私を愛してくれる彼女がいて、やっと私であったのだった。

彼女の就職や、私の留学(二回目である)や、コロナの蔓延などいろいろあった結果、2年ぐらいしてフラれてしまった。当然といえば当然である。私は与えられてしかこなかった。しばらくして、すさまじい喪失感が襲った。私は、私の存在意義を丸ごと失った。正確に言えば、失った瞬間から、人間はせこせこと本能を働かせて、生きるという使命を全うするように存在意義の喪失をカバーしているように、私には感ぜられた。

思い返せば、もっといろいろなことがあったのだろうと思う。でもそれは、私の前を通り過ぎる風景としてであって、私がその中にいるのではなかった。彼女との関係にしても、私は常に傍観者だった。見ているだけのやつが、いったいなんの権利をもっているのだろうか。私のなにもしてこない人生は、徹底的に無価値である。不誠実であるというのは私の核心であって、人生を振り返れば、その萌芽は母のお腹にいた時からあったのかも知れない。弱い。なんと、しょうもない人間なのだろうか、私は。

最近は自分に嫌気がさしてしょうがない。生きる意味などない、そんなことは議論する時間が無駄なくらい明白なのだ。ではなぜ生きている?それは、また買ってもない宝くじがやってくることを期待しているからではないのか?ずるい。卑怯だ。死んでしまえばいいのに、こんな自分は。