旅(人生)は恥の掻き捨て

人生なんて所詮一瞬の旅。どれだけ恥を掻こうが足るに足らないものだ。

生きることの吐き気 1

究極のところ、なぜ私は生きているのか不思議である。こんなにも生きることを嫌悪しているのに。この虚しさ、無意味さ、は筆舌に尽くしがたい。人間という存在をなんと醜いものかと思い、その人間に投げかける憎悪は、そっくりそのまま自分に返ってくる。

 

ポケモン映画第一作、『ミュウツーの逆襲』でのミュウツーのセリフ

わたしは誰だ…
ここはどこだ……
 
誰が生めと頼んだ!
誰が造ってくれと願った…!!
わたしはわたしを生んだ全てを恨む…!

だからこれは… 攻撃でもなく 宣戦布告でもなく
 
わたしを生み出したお前達への
 
"逆襲" だ  

ミュウツーの逆襲 (みゅうつーのぎゃくしゅう)とは【ピクシブ百科事典】

 

この言葉のしっくり感といったらない。理性をもってこの世界にうみだされたのなら、どんなものでもこの言葉を発するに違いない。この世界は完全に狂っているが、なんと幸せなことに生まれてすぐの存在にそのことはわからない。そして成長する過程でこの狂った論理を自己に内包し、なにも矛盾のないものと思える。理性をもって生まれたミュウツーにとって、生まれたことはすなわち「悲劇」でしかない。かの有名なペシミスト、エミール・シオランの「生誕の災厄」という著作にそれは端的に説明されている。

 

ところで、私は生を呪うペシミストアフォリズム形式の形で表現することの共通性には意味があるのではないかと思っている。シオランの主要な本はそういう形式でまとめられているが、原口統三の「二十歳のエチュード」もそうだ。本来は日記である高野悦子の「二十歳の原点」も、そうみえなくはない。後者二人は二人とも若くして自殺を遂げている。この二人は詩作に傾倒していたのもそうだが、それは単にそれだけの理由ではないと思う。

 

アフォリズム形式に表れているのは、ペシミズムそのものである。生きることを嫌悪するとはどういうものか。私は、何もかもが気に入らない。しかし世界を強く嫌悪する人間は、それ以上に自分を嫌いになってしまう。そもそも世界をなぜ嫌うかというと、カミュのいうようなどうしようもない世界の「不条理」のせいである。つまり、統一のとれた矛盾なき世界(そんなものはあるのだろうか?)という理想と現実の乖離である。この現実認識は、世界もさることながら自分自身にも強く跳ね返る。自分の書いたもの、生み出したものの不統一性を、まざまざと直視できないのである。その不統一で、意味のあるんだかないんだか分らぬような代物を、一見統一ばったものに整理するなどということは、結局表面的なことにすぎない。世間にあふれる無数のものがそういうレベルであり、それにうんざりしているのなら、わざわざ自分のものをそう見せる必要などないだろう。