旅(人生)は恥の掻き捨て

人生なんて所詮一瞬の旅。どれだけ恥を掻こうが足るに足らないものだ。

行動しなければならぬ

エンターテイメントと道徳のバランスは難しい。

 

自分の可愛さと世界の犠牲者、あまりに明白すぎる。明白すぎてだれも怖くて見ようともしない。

 

そんなことはないと、そんなはずはないと信じている。今起きていることに口を出しても、なにも行動しないのでは意味がないのではないか。

生きることの吐き気 2

布団の中で横になる、これ以上の至福はあるまい。

二足で立って為さねばならぬことに、それ以上の価値があると?

なぜそんなにも素朴に生きていられるのか、私には理解できない。

からしたら、全世界のほとんどの住人は、「生存教」のカルト的な信仰者だ。

なにをもって、その生を素直に肯定できるのだろうか。

私は、自分を含めて、なぜ理性をもった人間が自殺しないのかが不思議でならない。

寝床を出るときの倦怠、自分の鬱屈とした将来へ目を向けたときの溜息、または美しいものを見た時の絶望は、この一点の問題に収斂する。

分からない、分からない。

そんなことを言うと、「生まれてきてしまったものは仕方ない。楽しく生きよう」という気分になるときもないではない。

とはいえ、それも盲目的な精神状態の時のみ可能だ。

明晰な精神状態に近づくほど、私を誘うのは厭世的な気分だ。

そんなことを言うと、「生きる意味は自分で作るものだ。なぜなら意味とは自分で与えるものに他ならないからね」と、強い人間が助言をしてくれる。

それは何も言っていないのと同じではないのか?

意味が自分で与えるものであるならなおさら、それに失敗したときに生きる意味はあるまい。

なにもそれは自明のものではなく、各人の判断に委ねられているに過ぎない。

ではなおさら、自分を断頭台に送りこまないものは一体なんなんだ?

自分以外の人間の生きる意味を否定するつもりはない。

素晴らしい生き方は可能だし、幸せであるにこしたことはない。

というよりも、どっちでもいい、というのが正確な言い方だろう。

なぜかは分からない。なぜかは分からないが、私には何事もどっちでもいいと思える。

これが仏教的な無常観というのであれば、出家するのがいいのかもしれない。

しかしそんな高尚なものではない。

私はただ「不真面目」で、「不誠実」で、何事にも「真剣でない」、ただこれだけである。

誠実さの欠如は、生まれ持ったものか?四肢が欠損しているように、精神の欠損部分なのだろうか。

この世界が決定されているのだとしたら、私に何ができよう。

努力の問題ではなく、それ以前だ。

取り組まないこと、これは私のような人間にとっては常に最善とうつる。

そういう思考回路を持ち合わせてしまった、不幸なのか?

分からない、分からない。

気持ち悪い、気持ち悪い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きることの吐き気 1

究極のところ、なぜ私は生きているのか不思議である。こんなにも生きることを嫌悪しているのに。この虚しさ、無意味さ、は筆舌に尽くしがたい。人間という存在をなんと醜いものかと思い、その人間に投げかける憎悪は、そっくりそのまま自分に返ってくる。

 

ポケモン映画第一作、『ミュウツーの逆襲』でのミュウツーのセリフ

わたしは誰だ…
ここはどこだ……
 
誰が生めと頼んだ!
誰が造ってくれと願った…!!
わたしはわたしを生んだ全てを恨む…!

だからこれは… 攻撃でもなく 宣戦布告でもなく
 
わたしを生み出したお前達への
 
"逆襲" だ  

ミュウツーの逆襲 (みゅうつーのぎゃくしゅう)とは【ピクシブ百科事典】

 

この言葉のしっくり感といったらない。理性をもってこの世界にうみだされたのなら、どんなものでもこの言葉を発するに違いない。この世界は完全に狂っているが、なんと幸せなことに生まれてすぐの存在にそのことはわからない。そして成長する過程でこの狂った論理を自己に内包し、なにも矛盾のないものと思える。理性をもって生まれたミュウツーにとって、生まれたことはすなわち「悲劇」でしかない。かの有名なペシミスト、エミール・シオランの「生誕の災厄」という著作にそれは端的に説明されている。

 

ところで、私は生を呪うペシミストアフォリズム形式の形で表現することの共通性には意味があるのではないかと思っている。シオランの主要な本はそういう形式でまとめられているが、原口統三の「二十歳のエチュード」もそうだ。本来は日記である高野悦子の「二十歳の原点」も、そうみえなくはない。後者二人は二人とも若くして自殺を遂げている。この二人は詩作に傾倒していたのもそうだが、それは単にそれだけの理由ではないと思う。

 

アフォリズム形式に表れているのは、ペシミズムそのものである。生きることを嫌悪するとはどういうものか。私は、何もかもが気に入らない。しかし世界を強く嫌悪する人間は、それ以上に自分を嫌いになってしまう。そもそも世界をなぜ嫌うかというと、カミュのいうようなどうしようもない世界の「不条理」のせいである。つまり、統一のとれた矛盾なき世界(そんなものはあるのだろうか?)という理想と現実の乖離である。この現実認識は、世界もさることながら自分自身にも強く跳ね返る。自分の書いたもの、生み出したものの不統一性を、まざまざと直視できないのである。その不統一で、意味のあるんだかないんだか分らぬような代物を、一見統一ばったものに整理するなどということは、結局表面的なことにすぎない。世間にあふれる無数のものがそういうレベルであり、それにうんざりしているのなら、わざわざ自分のものをそう見せる必要などないだろう。

 

 

 

 

 

「沈黙は金なり」

「沈黙は金なり」

 

この箴言にすべてがある。無論、この言葉の本来の功利的な意味ではなく、在り方の問題としてである。

 

もし自我、もしくはエゴを完全になくそうと努めれば、それ即ち完全なる沈黙である。

 

言葉、もっと言えば「表現」というのは、自分が前提となる。それを世界に主張するということ、これは結局は自己愛であり、自己顕示欲であり、不純である。

 

自己という不純物を、この世界に放り出すことに賛成の人間は、この考えが理解できるはずである。

 

反対に、この世界を自分あってのものだと思える人間は、この理屈を理解するどころか、想像もできないことだろう。

 

そういう世界に自分は生きているのである。

永遠は矛盾

永遠をもとめるという行為が自己矛盾だ

 

永遠であるということは、このちっぽけな身体とかかわりをもちえない。

 

死んだらどうなるか、そのギャンブル以外に、永遠を目指す手立てはない。

 

たとえそのギャンブルをしたとしても、その先に永遠があるかはわからない。

 

ただ、その結果がどうであれ、生きて明日を迎える自分と果たして大した差はないだろう