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この世界におけるあらゆる事象は、突き詰めれば突き詰めるだけ、相反する要素が裏表になったような、一つの真実を突き詰めると、実はその全く対極にあるものを同時に肯定するような、そんな在り方をしているのではないだろうか、と思った。
例えば、存在の有無。我々を取り巻くこの世界そのものが、果たして存在するかという点については、哲学においても盛んに取り上げられてきた。ライプニッツ「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」というのは解決できない問である。
この問いに対するカントの4つのアンチノミーは、純粋理性の限界であるとともに、この世界の実相ではないのだろうか。世界が有限/無限である、この世界を構成する要素は単純/複雑である、などなど、突き詰めてもどちらかに天秤が傾くものではない。
私たちの日常性、取り巻く環境もご多分に漏れることはないように私には思える。例えば、この世には「愛」を追い求め、それを普遍のテーマとして扱う人が多い。しかし、結果として「愛」にある形を与えるということは、同時にその限界を露呈している。その「愛」が、時間的な標準の中にしか存在しないことは、その儚さを物語っている。愛が存在するとして、人にそれが扱える代物であるなら、果たして浮気などという名目で他人を非難することができるだろうか。逆に言えば、真の愛というものがあったとして、それがある一つに注がれるか否かということを決定する権利をだれが持っていようか。つまり、世に誠実な愛などと言われるものはすべて、妥協と諦念からくる産物に過ぎない。ここから、最も高尚に見えるものが、同時になんの価値もないようにも見える。
なにか一つのことを志向するという行為は、永遠性を全く度外視する思考の放棄なのである。思考しながら行動することは不可能であるから、行動するという行為は思考停止状態なのである。ここでいう思考はもちろん理性のことではなく、その内容のことである。
しかし皮肉なのは、真なるものが、少なくともそう思える心的状態に至る道はなんとその志向するという行為、一意専心によってしか得られないようにおもえるということである。思考は、常にその真なるものを、理性の力によってチート的に手に入れようとする。だから常に失敗する。
ここにおいても、表裏一体の世界が見て取れる。世界を知ろうとしない行為の先に世界が存在し、世界を認識しようとする試みは永遠に失敗する。
なぜなのだろうか。およそ合理的なものとは思えないのがこの世界の実相である。