旅(人生)は恥の掻き捨て

人生なんて所詮一瞬の旅。どれだけ恥を掻こうが足るに足らないものだ。

簿記 2022年1月27日

工業簿記

製造部門費配賦率

>部門ごとの、ある単位(直接作業時間だったり、いろいろ)あたりに掛かる製造間接費を導くためにある。目的を見失うな

 

基本的に、補助部門の変動費にしろ間接費にしろは、製造部門に配賦される

 >直接配賦法 ある基準に基づいて、製造部門ごとにすべて配賦する

 >相互配賦法 いったん補助部門ごとにも配賦、のちにそれも配賦する

簿記 2022年1月28日

工業簿記

 

個別原価計算

 部門ごとの原価計算を、個別の製品にまた計算する

 

 *あくまで「今月分」を、製品に振り分ける。その際、製造間接費勘定と製造勘定に分かれる。製造勘定は、直接材料や直接賃金などは、今月分は直接製造勘定の中に入る。そして、完成したものは「製品」、してないものは「月末有高」(仕掛中)として貸方記入される。

 *製造指示書がないものは、すべて製造間接費でよろし

 

仕損の場合

 まだ仕損が起きている段階 材料費や労務費は「仕掛品」

      仕掛品 | 材料費・労務費  *つまり、普通に仕掛品が増えるだけ

 それがなんやかんや完成した時、仕掛品>仕損費 に記帳する。

      仕損費 | 仕掛品

 そしてその仕損費を間接経費として処理すると、製造間接費になる

    製造間接費 | 仕損費 

   直接経費として処理する場合

      仕掛品 | 仕損費 (仕掛品に帰ってくる)

 

 

 

後悔以外なにもない、無価値なこの人生

思えば、生まれてこの方、なにかを本当に心からしたいと思えることなどなにもなかった。

私は母のお腹の中にいるとき、ほとんど動かなくてわざわざ医者に相談したほどだという。生まれた後も、幼児の時には寝返りを全くしなかったらしい。加えてハイハイという過程を経ず、しばらくしたら自ら立ったらしい。

よく考えれば、お腹の中の居心地があまりにもよくて、そこに満足していたのかもしれない。よく考えれば、寝返りを自主的にするほど、私の本能は生きることに真剣ではなかったのかもしれない。よく考えれば、まだ自分に備わった二本の脚を十分に使えないにも関わらず、周りの世界を探検するほど興味がわかなかったのかもしれない。

母親の無償の愛が、そんな私でも小学生に達した理由ではないかと思う。おそらく、私が最も純粋な形で、生に疑問を抱かなかったのは保育園までだ。ただ、母の庇護下にいられるのにも限界はある。私は小学生の、おそらく高学年になったくらいから、周りの者が徹底的にバカに見え始めた。学力という点では事実その通りだったのが、その認識を裏付ける根拠になった。しかしそれは、劣等感の裏側ではないかと、今では思う。友達と仲よく遊ぶ、ということを誰にいわれることもなく自然にできている周りの子達がただ羨ましかったのである。学校では基本的に一人の時間が多かった。そして私は基本的に家でもだらだら過ごしていた。本を読んだりゲームをしたり、なんとなく日々が流れていくのを、暇つぶしのような感覚で眺めていた。誘ってくれる友達がいなければ、外に出ることもなかった。それは今でも変わらない。本当に幸福な人生である。そういう人のいい奴がいつも、少なくとも皆無ではなかったことに私は、心から感謝している。

とまあ、恵まれた学校生活なのではないかと思う。そんな環境にいながら、私がなにかを自主的にしたことがあるだろうか。小学五年生のとき、統計グラフコンクールというのがあり、それで賞をとった。これは、少なくとも私が自主性をもって企画し、そして真剣に取り組んだ最初で最後のものかもしれない。

それ以外のことは、まあ流れにのってやったまでのことだ。そろばんには3年くらい通ったと思う。そろばん教室は非常に自由な空間で、基本的には各自野放しだった。教室のおばあさんは本当にいい人で、さすがに遊びすぎると少し怒られたが、私たちはみんな彼女のことが大好きであった。そんなおばあさんが、この前実家に帰った時に亡くなったと、人づてに聞いた。諸行無常である。

テニス教室には、姉についていく形で5年くらい通ったが、最後までいやでいやで仕方なかった。教室の曜日はかならずお腹が痛くなったものだ。運動不足を親に心配されて、陸上教室にも2年くらい行っていた。案の定嫌だったが、衣食住を依存している親に大きな顔をできない罪悪感は、小学生でも意外と持ち合わせているものだ。

そんな私は、中学受験をした。目指すのは、3年前に県立の高校を母体に新たに開設された、公立の中高一貫校であった。私は特に行きたい理由もなかったが、勉強ができる、ということが自分の存在意義だとすでに思い始めていた私は、親に薦められるがまま、一年前から塾に通うようになった。結果無事合格した。正直、受かるとは思っていなかった。その学校はとても人気で倍率は10倍程度はあったと思う。しかしなぜか受かったのだ。特に自分で主体性をもって取り組んだことではなかったものの、この成果はなにか偉大なもののように思われた。

中学に入った。厳密には中高一貫である。そこで、世界が広いことを知った。最も衝撃で、かつ嬉しかったのは、周りの子たちと話のレベルが合うことであった。それまでは、言葉の省略や論理の飛躍を避けて話していたが、中学で出会ったクラスメイトは当たり前にそれができた。会話がストレスなくできるのは、非常に気持ちのいいものだと思った。当時の私は、まだ自分に対して、期待していた部分があり、部活は直感的に吹奏楽部に決めた。この選択は、英断だったのか、おおきな間違いだったのか、今でもよく考える。しかし、楽譜も読めないくせにそんなところに飛び込むチャレンジ精神は、今の私がときおり採用するヤケクソではなく、純粋な気持ちだったのだろうとおもう。しかしその時から私は、真剣さ、努力、といったものに対する厭わしさにとらわれ始めていた。確かに、入部の動機は極めて清純なものだった。しかし、その取り組みはどうだったか。誠実とは言えなかっただろう。それでも3年いたのだが、結果的に中学4年(高校一年相当)の初めに「めんどうくさい」という理由だけで、定期演奏会前という最悪のタイミングで退部した。その時に、もめにもめたのは言うまでもないが、私はもはや、「めんどうくさい」から解放されるのであれば他人などどうでもよい心情になっていたのである。

この「主体性の欠如」「不真面目」「不誠実さ」というものは、もはや私の特徴というより、私自身である。私の人生に一つの一貫したものがあるとすれば、これだけだ。私は普通にまじめな優等生だったし、進学校の中でも学力は平均よりはあるほうであった。でも、そのような表面的な要素が、一体全体なんの足しになるのであろうか?

私は人間関係を厭うようになった。それでも、はたからみて一匹狼のようなスタンスをとっていたのではない。普通に友達もいて、それなりにやっているようには”見えていた”はずである。しかし、本当の意味で「友達」と呼べるものを作ろうとしなかった。チャンスはいくらでもあったのだ。しかし私はいつも真剣に向き合うことをしなかった。その努力を怠った。誰の人生にも関わらないことが、その人たちのためになるのだ、という悲しいルサンチマン的な思想を抱いたほどだ。経験的にそうなったのか、はたまた因果の結果なのかわからないが、私は常に「一人」であった。6年間の学校生活は惜しいものだったが、卒業式の後は、誰とも別れを惜しむようなこともなく、ひとりですぐ家に帰った。

中高一貫生活の中で、私にとって重要なイベントは上記の「部活」「友人関係」に関するアレコレ、あとはいかにも思春期らしい「失恋」と一年間の「海外留学」である。

失恋に関してはもしかしたら私の人生を決定づけた一つの分岐点だったのかもしれない。しかし、流れとしては部活と全く一緒だった。その始まりは、主体性にあふれた、純なものであったことに間違いはない。しかし、それに伴う必然的な努力をしなかった。完全な黒歴史であり、思い出したくもないが、私はとにかく痛い目を見たのである。私の思考にはそのころから、「主体性を持ってやったことほど、めんどくさいことはない」という強迫観念にも近い考えが生まれてきた。ただこれを自覚するのは大分後になってからである。

もう一つ外せないことは一年間、北欧のある国に留学していたことである。これについても、例にもれず私の意志というよりは、親の願いであった。現地についた瞬間、後悔した。言葉の壁というものを痛烈に感じたのである。もちろん、努力が嫌いな私は、天性の才能「なんとなくやる」を発揮し、なあなあの一年間を送った。みんないい人たちであった。そして、だんだんと気づいたことであるが、「留学生」という身分は私にとって最高の免罪符だったのである。なんとなく生きているだけで、立派に留学していることになるのだ。少なくとも、そう”見えた”らしいことは確かである。私は、最高にすべてから解放され、最高に自由な生活を謳歌できた。すべてのしがらみから解き放たれた私は、最高の気分であった。私にはそれだけで十分であった。それ以上に、自由だからといってしたいことも、やりたいこともなかった。学校が終わると帰り道でおやつを買って河辺で一人で食べた。休日はホストファミリーの犬の散歩に何時間もかけたり、自転車で河辺の誰もいないところに行った。自然をただ見て過ごしていた。それだけで私は満ち足りた、それだけで十分だった。留学をして分かったことは、私は「なにもしなくていい」ということ自体が、とにかく素晴らしいと思う人間なのだということである。これまでの経験からも明らかであるが、なにもしない、なにもしなくていい、ということが、私の価値世界において、至上の位を与えられているのだ。では、そんな綿費が生きている意味はあるのだろうか。最高に「なにもしない」、いや「なにもしたくない」のであれば、その最も手っ取り早い手段はいつも私のそばにある。私はいつでもその最高の世界に行くことができる。ちょっとの勇気さえあれば。

そんなこんなで、私は自分でなにをすることもなく、ただ流されて中学高校の生活を送った。留学から帰った私を待っていたのは、大学受験である。ああ、なんという甘美な響きなのであろう。大学受験は私の人生に今でも燦然と輝いている。それは、試験で点数を取るというゲームに私が異常に強かったからであり、その私が有利なゲームに、全国の受験生が血道をあげて参加していたからである。ただこれにはからくりがあった。私はまた「不真面目」であった。最初目標にしていた国立が、何教科も必要であるということがめんどくさかったし、「数学」というものが非常に問題を解くのに「努力」がいることに嫌気がさしたので、私は私立でも偏差値が高ければいいのではないかと考えるようになった。もちろん文系であるが、当時はまだ文系三教科が通用する時代だった。つまり、簡単な方に逃げてしまったのである。文系の科目は、私にとっては解くのに「努力」はいらなかった。もちろん、とんでもない量の暗記はした。したが、それさえあれば、試験問題などはただの作業だ。覚えていなければそれまで、覚えていれば解ける。歴史だけじゃない、国語だって英語だってそうだ。小手先の技術と暗記でどうとでもなった。

結果として、私立文系では最も偏差値の高い学部に入学することになったが「偏差値」が何も意味していないことに、まだ私は気づいていなかった。まだ私は、自分の惨めさを、「高学歴」という仮面を祭り上げることで覆い隠すことができた。しかし、自分でレベルを下げ、そこを通過するためだけになされたような努力など、なにもしていないに等しいのではないだろうか。努力とは、できないことをできるようになるためにするものであって、間に合わせの結果を手にするためのものは、努力とは私は認められない。

大学でも、なにもしなかった。サークルに入るという気力がわかず、大学寮でだらだら過ごすか、バイトをすることがほとんどであった。大学寮でのルームメイトはじめ、関係のあった人間は、あまりにも完璧な奴らであった。本当にいい人ばかりだった。しかし私はそこでもやはり、自分からどうしようとか、そういう行動を起こさなかった。常に受動的で、主体性などかけらもなかった。そんな私を、なぜか好きになってくれた人がいた。おなじアルバイト先の先輩で、年は二つ上だった。

今でも思う。私なんかのなにがよかったのだろう。顔や、学歴だ、と言ってくれたほうが、自惚れであったとしてもまだ納得がいった。しかし、彼女にとって好きは好きであり、ただそれだけだ、という風であった。私にとっては、まさに幸運以外の何物でもなかった。主体性などない私が、自分から出会いを求めるはずもなく、ただ生きていたら、彼女が突然私の人生に現れたようなものだからだ。いうなれば、買ってもいない宝くじが、勝手にやってきて、しかもそれがなんと一等賞、くらいの衝撃的な出来事であった。彼女との関係性の中で、私はなにかしたのだろうか。なにもしないではなかったのだろうか。与えられてばかりで、なにをしてあげられたのだろう。彼女が行きたいというところに行き、彼女が食べたいものを食べた。幸せそうな彼女を見るのが好きだった。でもその思いに果たして当時の私が気づいていたであろうか。私は、自分の存在を彼女に及ぼそうとは思えなかった。求められるものは差し出した。しかし私はなにも求めなかった。彼女は時折他の男に会ったり、肌を重ねたりしていた。そしてそれをなぜか毎回懺悔するかのように、私に告白するのであった。私は最初は動揺したものの、次第にその動揺に不思議さを抱くようになった。私はそれに動揺するほど、彼女を真剣に思っているのだろうか?そんなことを隠せず言ってしまう彼女は、そんなことをしていてもなお私のことが好きなようなのであった。だから何度そんなことがあっても私たちは付き合っていたし、問題はなかった。まるで都合のいい奴として使われているみたいに映るだろうが、そういった感情のもとに付き合っているようには思えなかった。仮にそうだったとしても、なお私に与えられたものは、どんなことを勘定に入れてもお釣りがくるほど大きなものだった。

彼女との関係は、一般的には「愛が重い」と呼ばれるようなものであった。私と彼女の共通のアルバイト先の先輩で、特に彼女の方と非常に仲の良かった人は、会うたびに私たちの関係が「異常」だと言っていた。確かに、彼女の依存度は日に日に増していく感はあった。別の男と関係を持つことはよくあったが、それと同時進行で一緒にいる時間が多くなっていった。あげく、彼女は私に同棲を迫るようになり、さすがにそれはやりすぎだと思って一晩喧嘩した結果、私は半分ヤケクソで、了承した。

後から振り返って思うのは、やはり私はなにもしていなかった、ということである。一夫一妻制がただの文明的な概念でしかない以上、ほかの男と会おうと何をしようと、それがただちに「浮気」とは呼べないし、人間の思いというのは、そんな社会通念以上に、価値のあるものだ、ということに関してずっと私は考えていた。そのたびに、彼女の懺悔をいつも「許して」いた。寛大なふりをしていて、結局弱いだけなのだ。それが間違っていたか、どうかは今でもわからない。しかし、「許さない」という選択肢も確かにあったのだ。その選択をしないために、周りくどい自己正当化をしていただけなのではなかったのか?私はまたなにもしなかったのだ。不誠実なのはどちらだ?不真面目なのはどちらだ?客観的に見れば、彼女のために寮生活を捨て同棲して全生活を捧げた「私」と、いろんな男と関係を持つ「彼女」、どちらが誠実かは答えが出ているようなものだ。社会的な通念であれば、それは明白なのだ。しかし実態として、これは全く正反対の事象を表している。決定することから逃げ、すべてを受動的にただ生きて、与えられるだけのもので成り立つ「私」と、何事にも真剣で、好きなものを好きと言えて、それに全力に取り組む「彼女」と。果たして、どちらが「誠実」か。

私は空っぽであった。空虚であった。何物でもなかった。「私」などはただの入れ物に過ぎなかった。私を愛してくれる彼女がいて、やっと私であったのだった。

彼女の就職や、私の留学(二回目である)や、コロナの蔓延などいろいろあった結果、2年ぐらいしてフラれてしまった。当然といえば当然である。私は与えられてしかこなかった。しばらくして、すさまじい喪失感が襲った。私は、私の存在意義を丸ごと失った。正確に言えば、失った瞬間から、人間はせこせこと本能を働かせて、生きるという使命を全うするように存在意義の喪失をカバーしているように、私には感ぜられた。

思い返せば、もっといろいろなことがあったのだろうと思う。でもそれは、私の前を通り過ぎる風景としてであって、私がその中にいるのではなかった。彼女との関係にしても、私は常に傍観者だった。見ているだけのやつが、いったいなんの権利をもっているのだろうか。私のなにもしてこない人生は、徹底的に無価値である。不誠実であるというのは私の核心であって、人生を振り返れば、その萌芽は母のお腹にいた時からあったのかも知れない。弱い。なんと、しょうもない人間なのだろうか、私は。

最近は自分に嫌気がさしてしょうがない。生きる意味などない、そんなことは議論する時間が無駄なくらい明白なのだ。ではなぜ生きている?それは、また買ってもない宝くじがやってくることを期待しているからではないのか?ずるい。卑怯だ。死んでしまえばいいのに、こんな自分は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年1月26日の今日

なんという薄ぺっらい人生なのだろう。

私の人生を総和したところで、まったく無価値なものだ

なにか自分で意味があるとおもったことを成していない人生など、誰にどういわれようと意味がないのである

 

簿記2級 1月26日

 

工業簿記

製造間接費の配賦

直接労務費法 製造間接費の実際発生額×全体の労務費に占める労務費の割合

直接原価法 製造間接費ノ実際発生額×全体の労務費+材料費に占める該当割合

直接作業時間法 製造間接費ノ実際発生額×全体の作業時間に占める作業時間の割合

 

製造原価=直接材料費+直接労務費+配布された製造間接費

 

製造間接費の予定配布 なんらかの基準で単位額を決める

 例えば、一時間の機械使用でいくらかかるか

  実際の使用時間から計算した予定配賦と実際額との差異

  >製造間接費配賦差異

 例えば、操業一時間当たりの製造間接費がいくらという予定額

 

公式法変動予算と予定配賦

製造間接費の変動費と固定費(何個作ってもかかる)を、一個当たりの配賦率を計算して、何個作ったかというデータだけで配布率を算出することができる。

変動費率 そのまま

固定費率 むりやり一個当たりの固定費を求める

 >二つの合計 製造間接費予定配賦率(正常配賦率)となる

シュラッター・シュラッター図を用いると便利

変動比率の線から下限までが、「予算許容額」となる。なぜなら下半分の固定費は操業度にかかわらず、実際には発生するから。

だから、期待実際操業度を下回った分は、固定費率の差分がマイナスとなる。(逆に変動比率は変動しているから問題ない。)上回った分は有利差異となる。

 

実際発生額との比較

 >総差異を把握できる。

   操業度差異 固定費の差異

   予算差異 それでも差が出た部分。

       訂正)「実際時間」の予算許容額-実際発生額

 

*「請求書を受け取る」>未払金

 

*もらったほうが「借方」

 

部門別計算とは

 普通なら、製造間接費をそのまま仕掛品にもっていく

 部門別計算は、一旦部門に分けて、補助部門(動力部門とか)を製造部門に振り分ける

 

 

 

 

 

 

簿記 2級 RTA 1月25日

工業簿記

原価計算期間は一か月

 実際原価計算と標準原価計算がある

直接経費+間接経費=製造原価

材料>仕掛品(直接材料)OR製造間接費(間接材料)

労務費>仕掛品(直接費)OR製造間接費(間接費)  労働力も材料だもんな

経費>仕掛品(直接費)OR製造間接費(間接費)  経費も仕掛けるんやで

 

製造間接費の配賦(仕掛品として振り分ける)

仕訳)仕掛品3000/製造間接費3000

 >これと仕掛品(5000とする)の合計=製造原価

仕訳)製品8000/仕掛品8000(実質、製造原価が8000ということ)

 

製品が10000で売れた、製造原価は8000

仕訳)売掛金10000/売上10000  いつも通りの仕訳

   売上原価8000/製品8000  製造原価が売上原価に切り替わる?

 

月次損益に振り替える  

仕訳)月次損益8000/売上原価8000

   売上10000/月次損益10000

勘定記入)     月次損益     

    売上原価8000 //  売上10000

 

まとめ 

仕掛品(仕掛品+製造間接費)>製品>売上原価

 

*所得税預り金  仕訳)預り金

 

材料について素材費(鉄)、買入部品費(タイヤ)

   消耗工具器具備品費(ハンマー)、工場消耗品費(グリス)、燃料費(油)

 

*販売所の修理に使った材料は、製造間接費ではなくて販売費に仕訳する

 

材料費の計算方法 

 先入先出法・総平均法

 

先入先出法の材料元帳

 単価別に分けて記載。返品は仕入返品だから、「受入」に赤字記入

 それと同じで、返庫は払出のキャンセルだから、「払出」に赤字記入

 

棚卸減耗損について

 正常なもの >製造間接費

 異常なもの >月次損益

 

材料の予定価格と、材料消費価格差異

 明らかな部分>前月繰越の単価、買った分の値段

 明らかにできる部分>次月繰り越しの単価(一か月分を仕入れを仕入れ数で割る)

 概算の部分>今月の使用した材料

      予定価格を使うことで、いちいち使うときに原価計算をしないで済む。

*差分は、「材料消費価格差異」を使用する。

 

賃金勘定 仕訳)「賃金」

 賃金の月末未払い金額が意味するところは、「賃金」の「次月繰り越し」であり、「未払賃金」でもある。 

最終的に、実際の支払額と予定賃率との差=「賃率差異」

賃率差異の仕訳について、知恵袋が参考になった。曰く

こういう差異系は最終的に「売上原価」に加算・減算されるからです。

「売上原価」は費用ですよね。
収益の代表格である「売上」と対になるものですから。
で,費用は増えたら借方です。

不利差異というのはイメージから分かる通り
“予定よりお金がかかってしまった”ということですから借方にきて,
売上原価に加算されます。

有利差異はその逆ですから,貸方にきて売上原価を減らしてくれます。

出典:賃率差異などは負債ですか? - だから、不利差異のとき借方なのですか? - Yahoo!知恵袋

 

不利差異  賃率差異/賃金 >費用として売上原価が増える

有利差異  賃金/賃率差異 >売上原価を減らす

 

経費

固定費であり月割り経費となるもの>変動しないもの

 減価償却費、固定資産税、火災保険料、地代

  とならないもの>変動するもの、突発的なもの

 水道光熱費、修繕費、外注加工賃(直接費) 

 

 

旧制一高出身者 有名 まとめ(自分用)

個人的な関心から、第一高等学校、通称旧制一高の出身者で、私の知っているを中心に有名どころをリストアップしてみたくなりました。ウィキペディアのページを参考にしてます。

 

卒業年次

1878年 坪内逍遥 小説家

?   穂積八束 法学者

1888年 尾崎紅葉 小説家

    山田美妙 詩人

1890年 夏目漱石 小説家

    正岡子規 歌人    

1893年 大町桂月 詩人

1894年 上田敏 評論家

1903年 鳩山一郎 政治家

1904年 阿部次郎 哲学者

    ?田邊元 哲学者

1906年 安部能成 政治家

    ?岩波茂雄(中退) 出版人

1908年 谷崎潤一郎 小説家

1909年 九鬼周造 哲学者

    和辻哲郎 哲学者  

1910年 南原繁 政治学

1911年 河合栄治郎 思想家

1913年 芥川龍之介 小説家

    久米正雄 小説家

    菊池寛(中退) 小説家

    倉田百三(中退) 劇作家、評論家  

1916年 ?岸信介

1920年 川端康成 小説家

1921年 戸坂潤 哲学者

?   西谷啓治 哲学者

1925年 小林秀雄 文芸評論家

    堀辰雄 小説家

1934年 丸山眞男 政治学

?   南部陽一郎 物理学者

?   山崎晃嗣 光クラブ首謀者

1947年 原口統三(死亡)